自分史という小説
2_水泳
 私は琵琶湖のそばで生まれ育った。 環境とは有り難いもので、物心ついたときはもう泳げた。

 小学生時代、学校にプールなどというしゃれた物はなく、 年に一回、全校生が近くの水泳場に集合し半日かけて水泳の授業があった。 五年生の時、遠泳の部というのがあってそれに出た。六年生といっしょである。 岸から二十メートルほど沖まで、杭が打たれていてその上に板が張ってある。 同じものが二十メートルほど離れてもう一方にある。その二つの間に杭が打ってあって正方形の枠ができている。 他の競技はこの枠の中で行われていたが、 遠泳は百五十メートルほど北に別の枠があり、 そこを往復する競技だった。
 泳げるといっても当時は平泳ぎだけしかできなかったので、 ひたすら泳いでいると、 前を泳いでいた六年生が一人、また一人と私の後ろになった。 何度か往復していると、前にも後ろにも誰もいない。 皆競技をやめて陸に上がってしまったのだ。 そういえば、この競技どこまで泳ぐのか何も聞いていない。
 そのうちに、折り返しの板のところで
「終わりだから上がれ」
と先生から指示があった。 岸の方を見ると、皆が整列を始めている。
 翌日、学校で千八百メートル完泳の賞状をもらった。 私自身はもっと泳いだような気がする。他の競技が終わって帰り支度をしていたのだから。 多分、六年生までは記録を取っていたが私がまだ泳いでいることに気づかず、 あわてて止めにきて、六年生よりやや上乗せした記録を書いたのではないかと思う。
 しかし、忘れ去られてほっておかれるよりはましかと、 変に納得したのを覚えている。

 小学四年の時、一人で桟橋近くで泳いでいた。 岸から二、三十メートル沖である。 琵琶湖は水流が激しく1メートル先では全く水温が違う。 急に冷たい流れに当たったのか、 足がこむら返りを起こした。 (当時はコブラ返りといっていたが、それは間違いだった。)
 この数日前、 テレビだと思うがこむら返りをほっておくと全身の筋肉に広がるという話しを聞いていた。 これは死ぬなと思った。
 何とかしないといけないと思い、 息を大きく吸い込んで、 水中にもぐり一生懸命足のマッサージをした。
 二、三度繰り返すと状態はよくなった。 しかし、足は使えないので手だけで岸に向かった。 足がつくところまで来た時、助かったとほっとした。
 周りにたくさんの人が泳いでいたので、 助けを求めてもよかったと後で気がついた。

 高校で水泳大会があった。 五十メートル自由形に出場したが、飛び込んでしばらくすると
「おい、あいつ平泳ぎしてるぞ」
という声が聞こえた。 平泳ぎしかできなかったのだから仕方がない。
 結局、平泳ぎで一位になった。

 中学教師になって初めてもった部活動が水泳部だった。 教頭に頼まれ、わかりましたと即答したのだが、 周りの先生方の反応が妙におかしい。
 あとでわかったことだが、 水泳部だけは持ちたくないという先生が多いそうだ。 なぜか。理由は簡単。
「死ぬから」
 どの部活動にも危険は伴うが、 水泳部はその中でも一番危険な部活動らしい。
 そういえば、顧問1年目に全く泳げない生徒が入って来た。 どれだけ泳げないのかをみるためにプールに連れて行き
「はい、泳いでみて」
というと、 その生徒は頭からプールの底に沈んでいった。 私は慌てて飛び込み引き上げた。
 沈む生徒もいるんだとこの時、初めて知った。 この生徒に選んだ種目は自由形1500メートル。 他の種目は他の生徒がいて大会に出場する機会が皆無だったからだ。 当然、初めの頃は途中でストップさせられた。 コールドゲームである。
 しかし、努力は報われるもので、 三年生になると最後まで泳ぎ切り、 計時されるようになった。

 水泳部の顧問になって、 クロールで泳ぐ方が楽だと初めて分かった。
 冬、たまに温水プールへ泳ぎに行くこともあったが、 ある日、近くの明舞団地にあるプールに行った。
 係員が怪訝そうな顔をして私を見る。 なぜだろうと思ってプールに行くとわかった。 ここには子供用のプールしかなかったのだ。 深さは五十センチあるかないか、 長さも十数メートル。
 泳ぎ始めた私を見て、 係員もかわいそうだと思ったのか、 ロープを移動して、 私専用のコースを作ってくれた。 浅くて短いので、ターンで蹴ればかかなくても反対の壁までいき、 ターンばかりの練習だった。
くま邦彦:作文家 / 2025/1/12 初稿
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